好日山荘 ガイドコラム

好日山荘契約ガイドによる山のコラム

S5年、剣沢小屋の悲劇

1930年(昭和5年)1月9日に発生した雪崩による悲劇

これは今から80年前の昭和4年12月30日に窪田他吉郎、田部正太郎、松平日出男、土屋秀直各氏4名が立山ガイド佐伯福松、佐伯兵次(宗作の実弟)に案内され厳冬の剱岳登山に挑む中、年が変わった1月9日未明、剱沢小屋において就寝中に雪崩の直撃を受け、6名全員遭難死した立山遭難史上希にみる大惨事のことです。

行程は12/30 藤橋ホテル→弘法小屋、1/2 剣沢小屋到着、1/3 晴れ 剣の威容を見る、1/4~8 連日吹雪、1/9 AM04:20就寝中に乾燥新雪雪崩発生、1/12 一次捜索隊剣沢小屋到着、1/16 二次捜索隊出発、1/20 剣沢小屋到着、捜索開始後、遺体発見という経過であったそうです。
この時、窪田氏からはまだ湯気が上がるほどであり、直前まで生きていたと考えられたのです。その後、二冊の手帳が発見されて、紹介されました。
その一部に「一月廿日午前二時頃雪崩ノタメ死ス残念不幸ノ罰ヲワブ 諸氏ニスマヌ・・・(行重って不明) ア、残念ナリ モウ如何トモ出来ナイ 人間ノ力ハ弱キモノ・・・(以下不明)」は刻々と迫る死を前にして書かれたこの遺書は涙を誘います。
詳しくは「銀嶺に輝く-報告と追悼」「剣沢に逝ける人々」に載っていますが、昭和28年初版の「雪の祭典」高橋喜平著にも「剣沢小屋の悲劇」として書かれています。

登山が大衆化する以前、明治末期の日本山岳会の活躍と昭和初期の大学山岳部の活躍が、芦峅ガイドの力がなければ達成できなかったことは、昨年公開された「剣岳 点の記」からもうかがい知れます。登山行為自体が限られた階層の人たちのものであったのを強く感じます。又、単独行で高名な加藤文太郎氏がこのトレースを追い、一行に歓迎されることなく下山したと伝えられています。そこにはどのようなドラマが展開されたのでしょうか。

最近の様な温暖化が進む以前の冬は三八豪雪五六豪雪など特異な年以外であっても、一旦冬型になれば一週間は行動が滞ることを計算に入れなければ、剣岳周辺には入山できませんでした。予備日7日、行動7日から10日の二週間から20日間を耐えきれるもののみが許される山域だったのです。

このような登山が現在に受け入れられるわけではありませんが、山に対しての謙虚さ、人間のか弱さ、を見直すべきことは多いと思います。多くの方の犠牲の上に現在の登山技術や考え方があるわけです。科学的思考は大切ですが、科学万能ですべてが解決できるという幻想は捨てなくてはいけないと思います。

現在の剣沢小屋は最高のロケーションの場所に石垣に囲まれてあります。

新築剣沢小屋.JPG 新築剣沢小屋石垣.JPG

登山研修所友の会には役立つ情報がたくさんあります。

加藤ガイドのHPでは、キノコ鉱物水滴、自然、花、地質、鉱物などを載せています。